特別対談:TISFD運営委員・木村武氏 × シェルパCSuO中久保菜穂 「サステナビリティ情報開示の新潮流:TISFDが示す設計思想と、日本企業の対応意義を問う」(後編)

本記事は、ESG Journal を運営するシェルパ・アンド・カンパニー株式会社のCSuOが、サステナビリティ・ESG分野の専門家にTISFDというテーマでお話を伺ったインタビュー記事です。

対談前編ではTISFDが設立された背景や「People × Planet」という視点の重要性について、日本銀行時代の経験を交えながら、木村氏に語っていただきました。後編では、TISFDの枠組みが決して企業にとって新たな「負担」ではなく、むしろ企業価値の創出に向けた重要な「好機」として機能し得る点に焦点を当てます。ダブルマテリアリティの視点から、企業活動と社会・環境との相互作用を捉え直す重要性を確認しつつ、人権をはじめとする社会課題への戦略的対応が、持続可能な価値創造の中核を成すことを明確にしていきます。

TISFD(Taskforce on Inequality and Social-related Financial Disclosures)とは?

TISFDは、企業や金融機関が直面する社会的不平等に起因するリスクと機会に関する情報開示の枠組みを構築するため、2024年9月に発足した国際的タスクフォースです。

この設立は、気候変動への対応として2015年に設立されたTask Force on Climate-related Financial Disclosures(TCFD)、および自然資本を対象とした2021年設立のTaskforce on Nature-related Financial Disclosures(TNFD)に続くものであり、格差・人権・人的資本・サプライチェーン・社会的分断など、複雑に絡み合う社会課題への包括的対応を目的としています。

現在、TISFDは関係ステークホルダーとの協議を進める準備段階にあり、構想・対象範囲・基本方針・ガバナンス・作業計画などをまとめたホワイトペーパー「People in Scope*」を公表しています。今後は多様な意見を踏まえつつ、2026年末までに初版の開示フレームワークの公表を目指しています。

*TISFD「People in Scope」https://www.tisfd.org/resources/scope 

対談者プロフィール:

TISFD運営委員 木村武氏
日本生命保険執行役員 1989年に日本銀行入行。米国連邦準備制度理事会(FRB)金融政策局への出向を経て、企画局政策調査課長、松江支店長、金融機構局審議役、決済機構局長を歴任。この間、FSB/AGV(金融安定理事会、脆弱性分析グループ)やBIS/CPMI(国際決済銀行、決済・市場インフラ委員会)のメンバーとして活動。
2020年に日本生命保険入社、21年にPRI理事に就任(23年末に再任)、24年にTISFD Steering Committeeメンバーに就任。工学博士、経済学修士。

シェルパ・アンド・カンパニー CSuO 中久保菜穂
S&Pグローバル Sustainable1部署にてESGソリューションズ・日本ヘッドを経て、2023年7月にシェルパ・アンド・カンパニーのCEIOに着任し、AIを駆使したサステナビリティに関する課題解決に取り組む。英国のESG評価機関であるVigeo Eirisでの分析・SRIアドバイザリー業務、デロイトにおける人権DD構築支援をはじめとしたESGコンサルティング業務経験も有する。京都大学 法学士、ロンドン大学(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)法学修士。大阪公立大学 経営学研究科 客員准教授。

TISFDは新しい負担ではない──負担の削減と、機会創出にむけて

中久保:
TISFDの掲げる課題の重要性についてとても理解が深まりました。一方で、日本企業の中には「TISFDという新しい開示の枠組みにまた対応しなければならないのか」と戸惑う声も少なくありません。さらに「不平等」や「システムレベルリスク」と聞いても自分たちには関係ないのではないかという反応もあります。そうした疑問についてどのようにお考えでしょうか。

木村氏:
まず誤解してほしくないのは、TISFDは企業に新たな開示の負担を増やすためのものではないということです。

むしろこれまでバラバラに存在している社会関連の情報開示の枠組みをできるだけ整理・収束させていくことを目指しています。気候変動分野でもかつて情報開示のフレームワークが乱立していた中で最終的にTCFDに一本化されたように、例えばESRS(European Sustainability Reporting Standards)やGRI(Global Reporting Initiative)、SASB(Sustainability Accounting Standards Board)といった既存の枠組みと相互運用性を確保するようTISFDを構築すれば、社会課題の情報開示においてはTISFDに対応しておけばよいという形になり、企業の負担はむしろ減ることが期待できます。たしかにTISFDはISSB(International Sustainability Standards Board)が検討している人的資本よりも開示対象とするpeopleの範囲が広く、社会資本も含んでいますが、これらは国際統合報告フレームワークにおいて人的資本と社会資本の開示が未整備な状況(missing piece)を埋め合わせるという位置づけと理解すべきです。

また、企業が社会的不平等の是正を自分ごととして捉えにくいという点は、TISFDの運営委員会でもよく議論されるテーマです。企業は人を搾取することによって短期的には利益を増加させることができるかもしれません。たとえば、生活賃金を下回る水準で従業員を雇用したり、非正規雇用によって人件費を抑えたりすれば、目先のコスト削減にはなるでしょう。しかしこうした「Peopleの搾取」が社会全体に広がれば、いずれマクロの消費需要が低下し、企業の生産性も落ち、経済の規模自体が縮小していきます。

個々の企業にとっては一時的に合理的でも、長期的には皆が損をする構造なのです。

中久保:
短期的な利益の追求が最終的には自分たちの首を絞めることになるのですね。

木村氏:
まさにその通りです。企業は自社の目先の利益ばかりに焦点をあててしまうと、負の外部性が重なり合ってシステムレベルリスクに至るという視点を持つことが重要です。

もちろん一社だけが不平等格差の解消に向けて努力しても効果は限定的ですが、多くの企業が同じ方向に動けば結果的に社会全体に還元されます。それこそが「企業としての責任」です。

そして、これは投資家にとっても極めて本質的な問題なんです。とりわけ年金基金や保険会社のような長期の機関投資家にとっては、経済全体の生産性や成長が低下すれば保有するポートフォリオ全体のリターンも落ちてしまいます。そうなれば受託者責任を果たせなくなってしまうのです。

だからこそ、そうした構造的なリスクを踏まえた「システムレベル投資」という考え方が近年ますます重視されるようになっているのです。

中久保:
投資家の視点から見ても社会全体を俯瞰する視座が不可欠なのですね。長期的視点において企業の行動が社会全体に還元される点についてよく理解できましたが、他にTISFDに対応することによって企業にどんなメリットが生まれるとお考えですか。

木村氏:
日本企業は社会課題の領域において男女間の賃金格差や非正規雇用の問題など、多くの課題を抱えていることは事実ですが、米欧企業に比べて劣っている訳では決してありません。むしろリードできる分野と考えるべきです。

たとえば、ステークホルダーの地域比率に応じて法人税をきちんと納めるという行為は日本企業にとって当たり前のことですが、米欧企業の中には租税回避を行うケースがみられます。企業が租税回避によって利益を増やしCEOの報酬や株主還元を増加させる一方で、地域への法人税の納付を抑制すれば公共サービスが劣化して教育の機会の低下や安価な住宅供給の減少などを通じて地域の人的資本や社会資本が毀損されます。その結果社会の分断や不安定化を招くのです。

地域コミュニティを大事にするという日本企業にとって当たり前のこと、つまり「三方良し」のような日本企業が受け継ぐDNAは、グローバルにみれば実は「サイレント・エクセレンス」と言えるんです。こうした当たり前をTISFDを通して共通言語化して可視化すれば、日本企業は大きな強みとして打ち出すことができます。

中久保:
TISFDが「不平等」というテーマを正面から掲げたことで、日本企業がこれまで当たり前なこととして取り組んできたことが戦略的な機会になるということですね。

個社レベルと社会全体レベルーTISFDが提唱する新たな枠組み

中久保:
先ほどのお話で既存の開示枠組みとの相互運用性に触れられていましたが、TISFDはダブルマテリアリティを採用していますよね。一方で、ISSBやSSBJ(Sustainability Standards Board of Japan)はファイナンシャル・マテリアリティを重視しています。企業がこの両者に整合的に対応するためにはどのようなアプローチが望ましいとお考えですか。

木村氏:
TISFDの特徴の一つは、これまでの開示タスクフォースやISSB等と異なり「エンティティ(個社)レベル」と「システム(社会全体)レベル」を分けて考えている点にあります。これは非常に大きな進化だと思います。個社レベルのインパクト・マテリアリティが累積し、相互作用し、拡散・連鎖することによって、システムレベルのフィナンシャル・マテリアリティへと転化するという経路は年金基金や保険会社などの機関投資家において近年とても重要視されるようになっています。

とはいえ、最初から全社一律でフルパッケージの情報開示を求めてしまうと、企業の現場では混乱が生じてしまいます。ですのでどこまで開示するかについては、企業や金融機関が状況に応じて選択できるよう、柔軟性を持たせることが重要だと考えています。

ただ繰り返しになりますが、機関投資家などはエンティティレベルの情報だけでは不十分だと考え、システムレベルの説明まで求める動きが強まっていく可能性があります。だからこそ高いビジョンを持ちつつも取り組みやすさを意識した段階的な導入が現実的だと思います。

人権・不平等に対応することが本物のサステナビリティ経営

中久保:
もう一点だけ、締めくくりの前に人権についてお伺いしたいと思います。ISSBの今後のリサーチトピックの中に人的資本が予定されておりますが、その中には人権という概念は含まれていません。一方、TISFDにおいては人権・不平等のトピックが取り上げらており、この違いは何かという声があがっています。この点についてはいかがでしょうか。

木村氏:
日本企業の中には、すでに人的資本への取り組みを進めているのになぜ改めて人権・不平等まで取り上げる必要があるのかと戸惑う声もあるかもしれません。

しかし、人権の課題は昨今よく話題に上る技能実習生の問題や途上国の強制労働・児童労働といったようなものだけではありません。たとえば、前述の生活賃金です。これは「労働者とその扶養家族が一定の労働時間内で健康で尊厳のある生活を営むために必要な基本的生活費を賄うのに十分な賃金の水準」のことを指します。つまり、生活賃金とは人権を尊重するための経済的基盤です。日本の全世帯のうち生活賃金未満で生活している世帯数はなんと2~3割にも達します。コメ価格の上昇が昨年後半から社会問題化したのには、こうした脆弱な経済基盤が背景にあるのではないでしょうか。日本社会に人権の問題がないと言えるような状況では決してないんです。そして生活賃金の視点からみた人権の問題は海外も含めたバリューチェーンを考慮すれば、日本企業にとってより重要な課題になると考えられます。

自社の従業員のスキルやモチベーションという形で人的資本を狭義に解釈しバリューチェーン上の人権への配慮を怠れば、マテリアリティの過小評価につながります。これは個社レベルではもちろんシステムレベルの視点ではより深刻な欠落になります。自社の従業員に関する人的資本にのみ焦点をあて、バリューチェーン上の労働者や消費者、地域コミュニティへの影響を対象外にして、それで本当に「サステナブルな経営」と言えるのか我々は問い直す必要があります。

コンプライアンスの延長から価値創造を生み出すプロセスへ

中久保:
力強いメッセージをありがとうございます。それでは最後に日本企業の皆さまにメッセージをお願いします。

木村氏:
日本企業はサステナビリティを「コンプライアンスの延長」として捉えてしまう傾向があります。情報開示についても「きちんと対応しないと他社より評価が下がる」といった義務感から対応する側面もみられます。これではサステナビリティが楽しい取り組みになりませんし、作業自体が受け身になってしまいます。

本来、個社レベルやシステムレベルの「リスク」の裏には同じだけの「機会」も存在しています。どう改善すれば投資家などステークホルダーとより良い対話ができ、企業価値の向上につながるのか、それを前向きに考えるプロセスに転換しなければ「開示疲れ」に陥ってしまうのは当たり前です。

サステナビリティは単なる義務やチェック項目ではありません。むしろ「価値を生み出すためのプロセス」としてポジティブに捉えていくことが重要です。

中久保:
木村様のお話を通じて、TISFDが単なる新たな開示フレームワークではなく、「人と地球の相互連関性」や「システムレベルリスク」といった企業価値の本質にどう向き合うかを示す道標であることが強く伝わってきました。

サステナビリティは義務ではなく、企業にとっての新たな価値創造のチャンスでもある。

だからこそ私たち自身も一つひとつの取り組みがどのように企業価値につながるのかという視点を持ち、自社ならではの強みを活かしながら投資家や社会との対話を深めていきたいと感じました。

本日のお話が日本企業の皆さまにとって次のステージへと進むヒントとなれば幸いです。
木村様、本日は本当にありがとうございました。

木村氏:
ありがとうございました。

関連記事

おすすめ記事

  1. TCFD・IFRS・CSRDの移行計画とは:業界別に考える開示ポイント

    2025-7-10

    TCFD・IFRS・CSRDの移行計画とは:業界別に考える開示ポイント

    ※本記事は2024年10月の内容にGX-ETSに関する内容を追記し再掲載している。(2025年7月…
  2. TNFD開示を支援する 主要ツール比較と選定ポイント

    2025-6-11

    TNFD開示を支援する 主要ツール比較と選定ポイント

    2024年にTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-…
  3. 進化するサステナビリティ開示 ― 傾向から考える“自社の対応状況”

    2025-6-6

    進化するサステナビリティ開示 ― 傾向から考える“自社の対応状況”

    サステナビリティ情報開示の高度化が急速に進んでいる。TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)…

ピックアップ記事

  1. 2025-8-14

    特別対談:TISFD運営委員・木村武氏 × シェルパCSuO中久保菜穂 「サステナビリティ情報開示の新潮流:TISFDが示す設計思想と、日本企業の対応意義を問う」(前編)

    本記事は、ESG Journal を運営するシェルパ・アンド・カンパニー株式会社のCSuOが、サス…
  2. 2025-8-11

    バークレイズ、サステナブルファイナンスで累計2,200億ドルを達成

    7月29日、英国大手銀行バークレイズは、2025年上半期のサステナビリティ投資家向けプレゼンテーシ…
  3. 2025-8-8

    バークレイズ、ネット・ゼロ・バンキング・アライアンス離脱を発表、移行支援は継続

    8月1日、英国大手銀行バークレイズは、ネット・ゼロ・バンキング・アライアンス(NZBA)からの離脱…

““登録01へのリンク"

ページ上部へ戻る